全国一宮 第26回「備中国一宮 吉備津神社」(2019年 3月)

2019年5月4日

 

(写真・文、 光岡主席研究員)

 

 古代、「吉備」は、ヤマト、北九州、出雲と並ぶ先進地域でした。

「吉備津神社」の祭神「大吉備津彦命(オオキビツヒコノミコト)」は元の名を五十狭芹彦命(イセリヒコノミコト)と言い、第10代・崇神天皇の命令で全国に派遣された「四道将軍」の一人として山陽道に下り、ヤマト朝廷に従わない瀬戸内海を制した吉備の豪族で異国人の「温羅(ウラ)」を平定しました。降参した温羅は民衆から呼ばれていた「吉備冠者」の名を献上し、以降、五十狭芹彦命は「吉備津彦命」と呼ばれるようになりました。

 以後、その子孫がこの地方に繁栄して「吉備国造(キビノクニノミヤッコ)」となり、「吉備臣(キビノオミ)」を名乗り、勢力を振るいました。

吉備津神社 鳥居・参道

吉備津神社・拝殿


 ここ備中一宮「吉備津神社」は、三備全体(備前・備中・備後)の一宮でもあると称しています。

備前と備中の境界線上には神体山「吉備の中山」(古今集の歌枕で有名)があり、この「中山」を挟んで、西麓に備中一宮「吉備津神社」が、北東麓に備前一宮「吉備津彦神社」があります。両社の距離は1キロもなく、同じ祭神「大吉備津彦命」を祀る一宮がこんなに近くに2つ存在するのは極めて不思議なことです。

 これは、おそらく、ヤマト王権が吉備勢力の力を削ぐために吉備国を備前、備中、備後、美作の4国に分国したことによると思われます。

 古代には、この両社は「中山」の麓に鎮座する一つの神社であったのでしょう。

神体山・吉備の中山

吉備津神社・拝殿


 吉備地方には、「吉備津彦命の鬼退治」と言う神話があります。

その昔、異国からきた鬼が吉備国に住み着いた。「温羅」と呼ばれる鬼は、もとは百済の王子だったと言う。「鬼の城」を拠点に暴虐の限りを尽くして人々を恐怖させていた。その討伐のため中央から「五十狭芹彦命」が派遣され「中山」に陣を置き、苦戦の末に鬼(吉備冠者)を退治した・・・と言うものです。

 これを寓話化したものが「桃太郎伝説」です。五十狭芹彦命(吉備津彦命)が桃太郎、温羅(吉備冠者)が鬼です。

吉備津神社・本殿 

 本殿は「吉備津造り」と言われる全国唯一の形式、壮麗です。京都八坂神社に次ぐ大きさがあり、出雲大社の2倍以上の大きさがあるそうです。

北随神門(訪問時、改修中)

境内の掲示写真より


 一方で、吉備津神社の境内には、この神社にしかない「御竈殿」と呼ばれる不思議な施設があります。中には、千年以上も、人が居ない時も火を絶やさない釜があり、これを使って「鳴釜神事」いうものが行われています。

 伝承では、死んでもほえ続ける温羅の髑髏を、吉備津宮の竈の地下に埋めたが、13年間、唸りが止まなかった。ある夜、吉備津彦命の夢に温羅が現れて「わが妻の阿曽媛に御饌(ミケ)を炊(カシ)がめよ。幸あれば豊かに鳴り、禍(ワザワイ)あれば荒(アラ)らかに鳴ろう」と告げたと言います。夢の通り神事を行うと“唸り声”は止まり平和が訪れました。

 以降、「鳴釜神事」は釜の鳴る音で吉凶を占うものとなりました。

御竈殿

古代より火の絶えない竈

この2枚の映像は、神社ホームページより

鳴竈神事


 鬼の温羅を平定した吉備津彦命(五十狭芹彦命)を祀りつつ、一方、温羅自身(吉備冠者)も神として、“一日たりとも火を絶やさない”という神事を大切に守っている事実、これは、温羅こそ本当のご神体であり鎮魂のための神社であることを暗示しているのかもしれません。

 

 「吉備津神社」は、出雲大社や相模の寒川神社と同じく、ヤマト王権の日本統一の中で滅ぼされた地方豪族の鎮魂のために創建された神社と思われます。

 

 「桃太郎伝説」も、“出雲の国譲り”のように、ヤマト王権の吉備征服を正当化するための伝説かもしれません。

「桃太郎おみくじ」

吉備津彦命の鉾型イラスト

「桃太郎絵馬」


廻廊

 本殿から中山の裾野に沿って境内に伸びる長い廻廊です(約400m)。

両側には、摂社・末社、そして庭園があり、清々しい独特の雰囲気です。

岩山宮

祖霊社

つばき

紅梅

 

摂社・末社の一部

 

 一般の神社の摂社・末社と違ったお宮の形をし、且つ、大きな建物が多く、印象に残りました。古い歴史を感じます。

えびす宮

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内に彩りをそえる花たち

 

訪れたのは3月末、さわやかな早春を感じました。

 

 

 

山桜