京都ミステリ-スポット 第14回「日本史上最強の怨霊/崇徳上皇を祀る白峯神宮」(2016年2月)

 2016年6月2日

 

(写真・文、 光岡主席研究員)

 

 今は、サッカーの神様と若者や子供でにぎあう「白峯神宮」は、本来は、皇室が700年もの間、最も畏れた「日本国大魔王/崇徳上皇の霊」を鎮め祀る、明治天皇の“即位の礼”の前日、慶応年号の最後の日(1868年8月26日)に、明治天皇によって創建された神宮です。

 

 保元の乱(1156年)で敗れ、讃岐の国に流され憤死された讃岐・白峯山陵に祀られる崇徳上皇の御霊を700年ぶりに京の都にお迎えし、今出川堀川の「白峯神宮」にお祀り鎮めました。
 つい150年前、現代の話です。

 

白峯神宮 鳥居

 

白峯神宮 由緒書き

白峯神宮 拝殿

白峯神宮 神門

 崇徳上皇は1119年鳥羽天皇の第一皇子として誕生したものの、実は、鳥羽の祖父白河法王と鳥羽の妻との間に生まれた不義の子であった。故に崇徳は、父鳥羽から「叔父子(おじこ)」・・(祖父の子)と蔑まれて育った。
 白河の権力の下、5歳の崇徳に天皇位を奪われ屈辱の鳥羽は白河の死後復讐を開始、鳥羽は院政を崇徳に譲ると嘘をつき、崇徳に天皇位を譲位させたが実際には院政を譲らず、崇徳は立場のない辛酸をなめる。
 崇徳の腹違いの弟/近衛天皇の早世後、崇徳は実子を天皇とし自らもようやく院政を開始しようとしたが、鳥羽が実子/後白河に天皇位を継がせたため、崇徳の悲願はならなかった。
 不満をつのらせた崇徳は、鳥羽の死後、ついに後白河と権力を争い、保元の乱(1156)となったが、後白河には平清盛・源義朝など有力武将がついたため崇徳は敗北、讃岐の国に流された。
 失意の崇徳はそれでも謹慎、せめて写経だけでも京の都に納めたいと大乗経の写経を送ったものの、朝廷は受けず突き返してきた。
 あまりの冷たい仕打ちに崇徳は怒り震え自らの舌を噛み、流れた血で「我は日本国の大魔王となり、永久に皇室を呪詛するであろう」と書き誓い、爪も髪も切らず生きながら天狗のような恐ろしい姿となって憤死した。
 崇徳の死後、京の都では2度も大火が、また後白河の皇子/二条天皇は23歳で早世、平清盛が天皇をしのぐ権力を有したのも、崇徳の祟と恐れられた。
 
 皇室は700年後の明治まで、この祟を真剣に恐れていたのです。


 現代の若者から「白峯神宮」が「サッカーの神様」と信仰が集まるのは、
 元々、この地は、「蹴鞠」の宗家「飛鳥井家」の邸宅跡地だったからです。
 毎年、4月14日には、蹴鞠保存会による「蹴鞠」が奉納されます。

鞠庭

蹴鞠の碑

 

 

 

名水・飛鳥井

(白峯神宮ホームページより)


 

 

 清少納言が「枕草子」の中で、9つの“都の名水”を上げていますが、現存するのは、この「飛鳥井」だけです。
 平安の昔から、今も清らかに湧いています。